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理不尽

時計を見て、今まで何をしていたのって不安になってくる。自分の中でも、答えが見つからない。今日ずっと同じ場所にいていた。ずっと同じ本を読んでいた。しかし、何か変わったの?変わってきたのかい?変わってきていない。日々が重ねると、なぜ何も変わってこない事実に対しての理解、自分の理論を思いつこうとする。

変わってこないのはなぜだろう?

ぼんやりとニュースをみることはけっこある。だらしなく日々を過ごしつつ、自分の心を何かで詰め込むようにニュースをみる。スマホ画面を下へスクロールしながら、乾いた目を引くものを探している。広告、CM、裁判、戦争、武器、民間軍事会社、招集令状のオンライン通知、兵支援、NGO、外国の代理人はメリーゴーラウンドーのように勢いで言葉は目の前にぐるっと回る。次の瞬間、画面から流れ出して、指にべたつき、染み込んでいて、現実のことに感じるようになってくる。そのべたつきの感触で、嫌だ、関わりたくないなぁと言うのだとすると、無頓着、無責任、放心している性格だと思われるようになってしまうほかはならん。正直に、虚脱に落ちやすい個性を持っているが、この理不尽な現実に対してどう対処すればいいのか考えなくてはいられない。

毎日新しくても、硬い、愛情のない、絶望、憎悪に溢れている空っぽな言葉が創造されている現実には私も硬く、愛情のなく、絶望、憎悪に溢れている主体になっていく。そういった現実の形を把握すれば、理不尽という言葉しか出てこない。どうやってこの現実の形を表現すればいいのか?自問しているなか、理不尽な現実に染み込んでいる指で、キーボードで感覚的に言葉を感触してみっている。

現実の表面に触れるのは現実を体験するしかないだろうね。しかし、体験しなくても、現実に触れることもできると確信している。心は身体と同じ、痛み、傷、やけどなどをつけやすいのだろう。簡単に露出されているのだ。心は現実を感じる器具。だから、現実の理不尽さでもういらなくなる時は、心が出血し始める。理不尽さは毒のように皮膚を通して体内に浸透することで、心に刺さってしまう。ここから身体の体験も生み出されるだろう。心と身体は統一されている存在として、現実の形を露呈させる。心と身体が一致している。一致しながら、両者は痛みを交わすことができる。

時計を見て、なぜ何も変わってこないのって、不安に抱えている。自分の中でも、答えが見つからない。ただスマホをいじっている。同じ言葉に何回も目を通している。兵役招集、軍事侵攻、徴兵逃れ、戦況など。冷たい、冷静、頑固、強烈、冷笑。どうやってこの現実の形を表現すればいいのか?

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